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 このたびYODOYAは、『セイクリッド-聖地の条件-』を開催いたします。『セイクリッド-聖地の条件-』は、日本を代表する現代美術家会田誠さんをプロジェクトスペースYODOYAへお招きし、「聖地の条件」についてお伺いするパーティーです。

 会田誠さんには、これまでの展覧会のインスタレーション・ビューをプロジェクターのスライドショーで振り返っていただき、その展示空間をどのようにつくってこられたのかをお伺いします。

 展覧会場は現代的な意味で聖地であると考えられます。時間と場所を移動しながら、世界各地で展覧会場をつくってこられた会田さんのインスタレーションへの考え方、その背景をお伺いすることは、「聖地の条件」を紐解く上でとても重要な内容を含んでいると考ます。会田さんは展覧会場でいかに作品を設置するのか、展示空間をどのようにつくるのか。会田さんにとって「聖地」とは何か。そこからみえてくる現代の「聖地の条件」とは何か。

 聖地にお酒は欠かせません。ささやかながらご用意いたします。ぜひ、このベリーグーパーティにお越しください。


『セイクリッド-聖地の条件-』
ゲスト:会田誠
日時:2017年2月18日(土) 14:00-16:00
参加:無料
定員:20名
バーテンダー:草野英之
企画:緑川雄太郎
主催:YODOYA
会場:YODOYA (〒583-0852 大阪府羽曳野市古市4-4-18)





【背景】

 1979年、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールによって書かれた著書『ポストモダンの条件』は、当時の思想界だけでなく、その後も世界に大きな影響を与え、「大きな物語」が終焉し、ポスト・モダンという時代を生きる上で必読書となりました。しかし、2017年現在、ポスト・モダンという語はすでにやや古めかしく捉えられるようになり、わたしたちはいま、次の時代のキーワードを探しはじめています。

 このような流れの中、『セイクリッド-聖地の条件-』は、「セイクリッド」をキーワードに企画されるものです。「セイクリッド」は、プレ・モダンの思想基盤でした。その後、そのような聖性から離れ、ヒューマニズムの理性に基づいた自律性をモダンは重要視しました。ポスト・モダンにおいては、フランスの哲学者ミッシェル・フーコーやルイ・アルチュセールらがアンチ・ヒューマニズムを説くものの、モダンもポスト・モダンも主体は人間が中心でした。一方、「セイクリッド」の主体は、人間ではなく、人間を超えた存在です。人間はその客体として「聖地」に訪れ、他者との交感を願いました。しかし、ポストモダンを経た現在、プレモダンのような神を想定することは困難な状況にあります。現代的な意味で「神」や「聖地」を捉え直したとき、わたしたちはどのような世界に立つことができるのでしょうか。

 美術批評家のボリス・グロイスは”Under the Gaze of Theory”の中で、芸術や宗教ではなく理性を重視した哲学の歴史に触れながら、「啓蒙以前、人間は神の眼差しの客体であったが、それ以降のわたしたちは批評的理論(critical theory)の眼差しの客体である」と言っています。これは、「神」に「理論」を代入しているため、理論が神に置き換わったことを意味しますが、神と理論は同じ主体であると考えられます。さらにその主体は、神的理論あるいは理論的神と捉えることもできるでしょう。そのような現代的な主体とわたしたちの関係性はどのようなものなのでしょうか。このような問いは、『セイクリッド-聖地の条件-』によってどのように応えられるのでしょうか。



R E P O R T
(2017.02.22)

1. Something Very Good
2. References
3. Hpnotiq
4. Matrix of Installation
5. Barackwise Installation
6. Passing Installation
7. Stambling Installation
8. A Place Where Body Floats
9. Sacred Installation



1. サムシング・ベリー・グー


プロジェクトスペースYODOYAが大阪古市にオープンした。これまでYODOYAは、特定のスペースを持つことはなく、いくつかのアートプロジェクトのサポートに専念してきた。”SOMETHING VERY GOOD(とてもよい何か)”をコンセプトに行われてきたそれらは、理性では捉えがたい何かを捉える、まさにベリーグーな取り組みだ。今回なぜスペースを持つことになったかといえば、SOMETHINGがYODOYAをそうさせたというべきだろうか。人知を超えたその何かは、わたしたちにどのようなベリーグーをもたらすのだろう。そして今回の『SACRED-聖地の条件-』はどのようなSomething Very Goodだったのだろう。以下レポートする。



2. 参考文献


『SACRED-聖地の条件-』と題された今回の企画は、現代美術家・会田誠氏を招き開催された。会場には、今回のテーマに関連する参考文献が並べられ、来場者は自由に閲覧することができた。例えば会田誠氏は、Richard Mayer ”WHAT WAS CONTEMPORARY ART?” (2012)に対して、「過去形、ほぉ〜」と反応した。ちなみに、この他ジャン=フランソワ・リオタール『ポストモダンの条件』(1986)、Paul Vililio “Unknown Quantity” (2002)、大航海No.70『[現代芸術]徹底批判』(2009)、森美術館『天才でごめんなさい』(2012)、Ossian Ward ”WAYS OF LOOKING―How to Experience Contemporary Art” (2014)、Omar Kholeif “You Are Here―Art After the Internet” (2014)、新潟県立美術館『ま、Stil Aliveってこーゆーこと』(2015)、岩波講座現代第1巻『現代の現代性』(2015)、ゲンロン3『脱戦後日本美術』(2016)があった。



3. ヒプノティック


また、バーテンダー・草野英之氏は、オーセンティックな技術をベースに、特異な配合で構成したカクテルを来場者にもてなした。中でも、フランス語で「催眠」を意味するヒプノティックというリキュールを使ったカクテルは、ユートピアともディストピアとも違う謎の異国に吹く風を連想させた。聖地の条件について迫るパーティーで氏が採用した催眠術は、来場者の体を不思議と軽やかにしてくれた。



4. インスタレーションのマトリクス


田中角栄が憑依したコテコテの挨拶が予定されていたがきちんと真面目な語り口だったYODOYAオーナーのスピーチの後、会田誠氏のインスタレーション論ははじまった。現代の聖地をアートワールドで考えた時、インスタレーションがそれにあたるのでは、古墳群がある古市に位置するプロジェクトスペースYODOYAでそのことについて議論することは重要なことではないかという仮説を元にそれは展開された。そのような趣旨は「グッドだ」、しかし、「まあ、なんで最初に俺なんだろうな、よりによってみないな」と会場を笑わせる会田氏。というのも、「普通にインスタレーション、現代美術、聖性っていうと、ま、僕を呼ぶんじゃなくてまずは内藤礼とかでしょ」。なぜなら、「基本まあ僕は内藤礼さんとは、なんなら美術界ワールドの図を書くとすると、対角線上に、あの、ね、どういうマトリクスかは置いておいて」と氏は考えるからだ。

そもそも会田氏は予備校時代、雑誌『美術手帖』で初めて「インスタレーション」という用語を同名の特集号で知ったという。当時の時流がインスタレーションであることを把握するも、「ひねくれた一種のギャグ」として「絵描き」としてデビューしたが、「本当はインスタレーション世代の一人である」と氏は言う。

1999年に東京都現代美術館で開催された『ひそやかなラディカリズム』という展覧会を挙げ、参加作家であった内藤礼氏と出会うも、「話合わない合わない」というエピソードを語り再び会場を笑わせる。ちなみに会田誠氏はかれらのようなスタイルを「密やか系」と呼んでいる。

「僕の男女差の話は雑なので」と断りを入れつつ、氏が持っているインスタレーションの代表的なイメージは「女性作家が多く」、「円、球体」、「ずばり言っちゃえば子宮的」。一方、「究極の男性的インスタレーション」は「垂直、水平、平行」の「ドナルド・ジャットやモンドリアン」。そして「内藤礼的ものとドナルドジャッドの間にまあ、いろいろ中間の、おかま的ヴァリエーションがあるというのが僕のすっごく簡単なインスタレーション観」であるという。



5. バラック的インスタレーション


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『SACRED-聖地の条件-』の趣旨と、会田誠氏のインスタレーション観を踏まえた後、氏のこれまでのインスタレーションについて具体的に振り返った。今回のトークで3つ用意されたうちの最初のイメージは、2015年に東京都現代美術館で開催されたグループ展『おとなもこどもも考える ここはだれの場所?』での会田家のインスタレーション・ビューだ。いわゆる檄文問題はインターネットにお任せし、この会場の作り方について氏の話を聴く。

「バラバラなんだけど何かに統一されている気配がある。そこにセイクリッド、ある種の聖性を感じる」。「いいインスタレーションに出会うと体が浮く」。「そこにはあるまとまりがある。ここでは多分『会田家』という謎の概念」。「そう言った感じとかを会田さんはねらっていたりするんですか?」という問いに対して氏は、 「少なくともまず、インスタレーションするときに、うん、聖なるものを作ろうというようなことは脳裏によぎることは基本はなく。えーとでもある時はある。」「インスタレーションに限らない話なんだけど、僕の好みとして、例えばスラムとか。」「戦後の焼け野原でできたバラック、闇市。要するに自然発生的に(中略)集まって、(中略)無理な不思議な通路ができたりして、(中略)誰も全体像はわかってなくて、あのー、そういう神の視点で上から見下ろす人が誰もいない中で、それぞれもう近視眼的に動いてたのが、結果的に上から見たら何かこう不思議な、有機的な」。「現代美術とかやっぱり、自然となんとなく自然の地形でなんとなくなあなあとやるよりは、神から視点でドカンとやるような態度の方が近いような気がするんだけど」。「僕はなんか、うん、バラック好き。そういうのが、空間はちょっとそういうのが好き」と応えた。

「このインスタレーションは有機的につくっていったんですか?」

「えーっと要するに、僕と妻がうちのリビングで、そこらへんに転がってるまあ、広告の裏みたいな、あのー、A4のコピー用紙みたいな、のに、ボールペンで、あーでもないこーでもないとか言って、ここは無理よとか、あなたのその作品の音がこっちまで聞こえるとか、じゃあこっちとか、なんか、喧嘩しながら。現地行ってもやっぱりこうだったとか、えー、でー、まあなんかそんな感じだね」。「やはりあの、バラック好きと繋がるけれど、あのー、ただ、まあ意図的なわけですよ、妻も含めて。ぼくらは、うちの会田家は、簡単に言うとひどい部屋にしよう」。「ぼくらの役割としたら、だめ家族を演じて、まあ演じなくても実際ダメ家族だから。うん、ダメで、部屋も3番目で、4つ大きな展示室があるうちの3番目で、他のとの役割分担で、まあなんていうんだっけ、えーっと、起承転結とか、交響曲とかでも3楽章ってちょっと、ヘンテコなものを持ってくることがね、ベートーベンでもモーツアルトでもあるけど、ちょっとここであの、お客さんにふ、不快感を感じてもらうような。」「ひどけりゃひどいほど俺たちの役割は、あのー、全うできるので、音被りとかも、まあまある程度、音被ることがむしろ良いんだっていう。えー。」「人間はその一人の頭の中だったら、まあ、あの、ね、綺麗に整頓されたり、(中略)ファミリーは血が繋がっているとはいえ、ま妻とは繋がってないけど、子供も他人であり、別意識で生きてて、えーと、コントロールなどは、あのー、まあ、なんて言いますかね、息子のことなんてまあま10%くらいしかできませんわね。えー。ということなんで、まそれがインスタレーションにもええ、あの、反映されてっていうようなイメージで」。「まあつまり、これに聖性を感じるのだとしたら、(中略)バラック的なるものに聖性はあるのかもしれないという変わった話になるのかもしれない。」



6. 通り過ぎるインスタレーション


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今回2つ目のイメージは、2012-13年に森美術館で開催された会田誠氏の個展『天才でごめんなさい』でのインスタレーション・ビュー。1つ目の会田家のインスタレーション・ビューはファミリーとしてだが、こちらは会田誠氏個人としてのインスタレーション論だ。

「やっぱりあそこも簡単にいえば4つ大きな展示があって、案の定これも3番目です。」「だからやっぱり、(中略)3は変なことするっていう」。「まあとにかく、日本のネット、ぐちゃぐちゃゴミ溜めみたいにあるいろんなものを、まあ、取ってきて、く、くま手みたいな形であの、花束みたいにまとめて、一応、一作品としてあの、みたいな意図のやつが壁にありあと、まあ、色々ね、色々あの、あるんですけど。」「第3室、こいつだけは全部の僕がやるみたいな、感じで、なぜなら、プロがやらなそうなひどい感じにしたかったから、うん。」「ここにはそういう絵描き活動からあぶれちゃったものを突っ込んだんだけれど」。「絵を鑑賞するに際して、妨げになるようなものを全く無くして、絵画として、じっくり、あのー、お客さんに向き合ってほしい、っていうタイプで、は、なかったり、するわけで。あのー、なんかこうじっくり、みてくださいって感じでもなくて。壁紙のように通り過ぎてくれればいい。」「秋葉原の蛍光看板が好きっちゃ好きなわけで」「あれもだからバラック的なわけでしょ」。「まあ特に、西洋人が俺たちやんねーなできねーなっていう、半ばバカにし、半ば畏怖しっていう感じが、あの秋葉原でパチパチ、あの白人が、あの、写真撮ってることなんじゃかと思うけれど」。



7. ふらふらするインスタレーション


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最後のイメージは2002年の絵画作品『人プロジェクト』。一般的に絵画はインスタレーションとしては考えられないが、絵の中で起こっていることをインスタレーションと捉えて話は展開された。

「今日もほらあの、古墳見に行ったけど、あのー、古墳てね、そこのところ行ってもま要するに、こーんな形のね、森みたいのがあるというだけで、観光地としてなかなか、コンテンツとして弱いところがあるよね。」「これも実際あるとしても、ま、つくっても現地、あのお客さん来てもらわなくてもいいような、来たって、ね。なんかちょっとこう、飛行場の滑走路みたいにしか見えない」「今日はホーリー・プレイスっていう。プレイスとかね、土地。地球上の限られた有限の土地に対して、僕という個人、そういうね。そういうことの中においてね、あのー。プレイスとか土地に、関わっちゃいけないという気持ちさえ、していて。」「僕多分何かこう維持する、キープする。のがね、病的にできない人間で、あの立ち上げるとか大好きなんだけど。話はもうちょっといくよ。」「人間は行かなくて、そのまんま、触らず、えーそういうところがなるべく地球に多めな方が良くて、基本人間はなるべく、遠慮した方が良いと思ってるのの裏返しで、あの、こんなひどいことをしますし、アートっていうのはそういうのを孕んでて、アートなんてろくなもんじゃないと、いう、のもあってのこういう作品なんだけど」「インスタレーションの話で、特に現代美術は仮説的なことが多くて、(中略)ま普通はホワイトキューブの美術館やギャラリー、一回、まプレイスを作るけど、ええと、まあね、次の月には他のアーティストがやるから、期間が終わったら全部撤去ってのが、普通の流儀だけど、そっちの方が好きで」「基本的に、えーっと、自分が作るものは、なんていうんだろポータブル、手で持てるもの、あのー、ま、さらに、重たいものとか、石とか鉄とか基本なるべく人生でやりたくないのね。あのー、でかいものならなるべくハリボテ。移動が簡単。それはその、プレイス、地球の土地が有限である、っていう中で、作りたいとは思うけど、どこかの場所を俺専用だと居座るのは、な、なんか嫌なんだよね。」

「ただそのー、やはりね年、年なんだよね。段ボール、段ボールの。あれはそのー、”Monument for Nothing 2”なんだけど。」「僕の人生でこのままだと唯一かもしれないけれど、ある場所が設定されていて、なるべく永久設置ってことで動いてるんだけど、少し自分を裏切った感じがしていて。」「いろんな展覧会とかで運搬してると、運搬ごとに壊れてくんだよね。」「壊れてもあのメンテナンスできるからやってるんだけれど、やはりそれが何かこう、もう虚しくてね。えー。あとはー、湿気とかね、ネズミとかそういう、カビとか、そういうものとの戦いがあって、ここはやっぱり仕方ない、なんか最後の、なんかね、あの、安心して眠れるお墓を作るような、感じで、ダサいけど、やっぱり動かさないで済む場所、あのー、ね、最後の安息の地を、こいつらのために作ってあげなきゃいけない、というのは、うん、優しい気持ちのようだけれど、何か、ある、僕の純粋性をここで、あのー、壊しちゃうことだなーという思いはするんだよね。」「あとま、もうちょっというと、個人美術館とか作りたくないね。」「ちゃんとまあ理由は言えないけど、でも僕の作品は、うん、あのー。僕の死後も、なんかこうふらふら、ふらふら、ふらふらしてた方がいいなと思って。まして一番悪夢は、その維持運営に僕の息子がやってるなんてのは一番嫌だね。僕の作品は散らばった方がいい。」



8. 体が浮く場所

「会田さんが最近体が浮いた場所はありますか?」と会場から質問。

「定規で引いたような直線の道じゃなくて、なんかこう、もにゃ〜んと曲がってて、えーと、車だとあのー、軽じゃないと曲がれないみたいな、ああいう、あのーね、前近代から江戸時代からあった道なんだろうないまは舗装されてるけどみたいな、えーとー、道を、歩いている時に、あのーなにかこう、ほ、ほっこり、とか、気分が上がることがありまして、えー、まあ単なる僕はあのー、徹底して、そういうのが多分好きで」。「8車線みたいな感じで通行人無視な、そこでなんかこうね、歩道をとぼとぼ歩いてたりすると、なんか死にたくなる、んだよね」。「ロスと北京てすごい印象として似てる。車優先社会のあの、あーゆーところは本当、心底嫌だった。あの、えー、スペースで。それはただのね、あの、人の好みだけど、まそういう好みはやっぱり芸術活動とかにまあ、ダイレクトに出ます、出ますわなあ。それはインスタレーションとかにも多分、出ると思うけど。」

トーク中に話された主な内容を大まかに抜粋すると以上となる。このことについての付け加えを以下行う。



9. セイクリッド・インスタレーション

”Sacred Installation”という語が、今回のトークで明るみにされつつある。それはトーク中に自然と出現してきた語だが、それが一体何なのかをここで捉えてみる。

そもそもinstallationという用語は、20世紀初めに活躍したMarcel Duchampを起源とし、1950年代のGutaiやAllan Kaprowなどがインスタレーションの文脈で語られる。あるいは1957年にRichard Hamiltonが開催した”An Exhibit”の再考が近年イギリスや日本で高まっている。それらは1960年代のConceptual Artにつながるとされ、installationという語は1969年にオックスフォード辞典に初出した。今やインスタレーションというアートの方法は、絵画や彫刻、映像などを総合する空間一般を意味しており、伝統的なアートフォームでは捉えがたいあらゆる形態がインスタレーションというマジックワードに回収されているかのようだ。さらにはアートワールドの中では、それが空気のようにあまりに自然な存在であるため、インスタレーションという語はさほど気に留められることなく、取り立てて使われなくなってきてすらいる。何かを説明しているようで何も説明していないようにも見受けられるこのインスタレーションだが、Sacred Installationは、そこに何らかの方向性を示すことができるかもしれない。

Sacred Installationは、パーマネント、常設、安定といった語とは遠い。それはテンポラリーであり、仮設であり、不安定である。今回の『SACRED-聖地の条件-』でのトークにもあったように、それは体を浮かせる。その場所に設置されたいくつかの作品や要素が鑑賞者の意識の配分を分散させ、それら四方八方からの特異な引力たちによって体は浮く。その浮遊は、視覚や聴覚などの感覚に混乱を起こさせ、どこの何をどう知覚すれば良いのか判断がつかなくさせることに起因する。あるまとまりの中で、主体は主体であることから離れてしまう。Maurice Merleau-Pontyであればそれを「肉の差異化」という概念で説明しただろうか。あるいは会田誠であればそれを「子宮的」というだろうか。母体の羊水に包まれた胎児のような原体験とSacred Installationは関連しているのかもしれない。鏡像段階を経る以前の胎児はおよそ主体であるという認識はないだろう。むしろ「ある/ない」の二元論に陥るような次元からも解き放たれていることだろう。Sacred Installationにおいて人は、主体と客体の別を失い、その結果体は浮く。このような現象は稀ではあるものの、時折起こり得る。Sacred Installationが現代の聖地であると仮定すると、今回の会田誠氏のインスタレーション論は多くの実り、つまり条件を提示していたのではないだろうか。繰り返しになるが、それらを端的に列挙すれば、「バラックであること」、「通り過ぎること」、「ふらふらしていること」の3点だ。『SACRED-聖地の条件-』は今回ここにこのようにして抽出された。もちろんこれは会田誠氏独自の条件であるかもしれない。しかし、この3つは多くの意味を含んでいることだろう。

氏の語り口は、「結論がないままに話していますけど」という譲歩が示すまでもなく、まさに「バラック的」であることがわかる。上述のように発話をテキストにして改めてその内容を振り返ると、トーク中には「通り過ぎ」てしまいそうだが実は重要な内容を含んでいる箇所もある。「ふらふら」した語気も含め、氏の話自体、Sacred Installationの条件を満たしているとも言えるのではないだろうか。また、「もにゃ〜ん」とした道に「ほっこり」し「定規で引いたような直線の道」で「なんか死にたくなる」、「意図的」、「3は変なことをする」、「好み」は「ダイレクトに出る」など、自身の方向性を「バラバラ」と捉えつつも、端々に整合性が取れていることもわかる。しかしやはり、氏のいくつかのインスタレーションにおいて、その空間には捉えがたいあるまとまりが出現する。それは整合性や条件で分節化できない奇妙な空間だ。これは一体何なのだろうか。Sacred Instalationの全てを言語化できるなどという思い込みが誤謬であることは承知の上だが、それでもなお言語を捨て去ることはできないだろう。なぜなら、これからまた別の条件が見出され、Sacred Installationの精度と頻度が上がることを願うからだ。Sacred Installationによってわたしたちの世界は、次の段階へ移行する。今回のSACREDは、その準備をするための、小さくも大きな一歩だったのではないだろうか。

text by Yutaro Midorikawa